上高地公園線が開通しました(4/17)!

ワシントンの桜並木を実現したエリザシドモアってどんな人?

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天気予報のコーナーなどで桜の開花予報が出る時期となりました。今年はどこにお花見に行こうかと、はやくも計画をたてている人もいるようですね。

今年2017年は、東京は3/21に開花予報出ており、これが全国で一番早い桜の開花予報となっています。

満開の桜の、その美しい姿を楽しんでいるのは、私たち日本人だけではありません。

米国、ワシントンのポットマック河畔の桜並木は有名で、こちらは東京よりも若干早い3/19~3/22に満開となるとの予報が出ています。

毎年「桜祭り」が開かれとてもたくさんの人が桜を楽しんでいます。今年も3/15から4/16まで開かれます。

でも、なぜポトマック河畔に桜並木があるのでしょうか?

桜並木の実現には、あるひとりの米国女性の尽力がありました。

今回は、米国の人々に愛されているポトマック河畔の桜並木の実現に尽力したエリザ・R・シドモア(Eliza Ruhamah Scidmore)さんのご紹介です。

目次

エリザ・R・シドモア

エリザ・R・シドモア

エリザ・R・シドモア

エリザ・R・シドモアの経歴

シドモアさんは、1856年10月14日に、米国アイオワ(Iowa)州のクリントン(Clinton)で生まれました。

世界の各地を旅行し、写真を撮ったり、本を著したりしています。

1890年には当時設立されて間もないナショナル・ジオグラフィック協会の正規の記者となり、後にエリザさんは同協会初の女性役員にもなっています。

エリザさんの兄、ジョージ・シドモアは外交官であったため、兄の任務によく同行していたようで、外交官という立場から、一般の人には行けないような地域にも出かけることができた、ということです。

1925年に米国からスイスのジュネーブへ移住します。これは、米国議会が「排日移民制限法」を通過させたことに腹を立てたためだと言われています。日本を含め世界を旅し、さまざまな人種の人々と交流してきたエリザさんにとっては、人種差別的な法案が許せなかったのでしょうね。

スイスに移住してから3年後の1928年、エリザさんは72歳でその生涯を閉じます。詳しいいきさつは不明ですが、日本政府の計らいにより、すでに兄と母(エリザ・C・シドモア)が埋葬されていた横浜の外人墓地にエリザさんの遺灰が埋葬されています。

エリザ・シドモアと母

エリザ・シドモアと母

エリザ・R・シドモアの日本訪問

エリザさんは日本に何度も訪れており、滞在中は横浜や山手に住んでいたようです。

最初の訪問は1884年(27歳のとき)で、ナショナル・ジオグラフィック誌で日本を紹介する記事を書いたり、『日本・人力車旅情(1891年)』の本を刊行したりしています。

エリザさんは、日本の武士道に基づく文化と、桜を愛でる日本人の精神に惹かれたようで、そのような日本人や桜の名所を著書の中で紹介しています。

1886年6月15日に起きた三陸沖大地震を取材し、ナショナル・ジオグラフィック誌に書いた記事では、津波による被害の惨状を写真とともに伝えました。

今では世界で通用する “TSUNAMI” という言葉を、世界に向けて初めて発信したのがエリザさんであることは有名な話しです。

エリザ・R・シドモアとポトマック河畔の桜並木

エリザさんは日本滞在中に訪問した向島の桜にとくに魅せられていたようです。

1885年、初めての日本訪問から帰ったエリザさんは、ちょうど埋め立てが行われていたポトマック河畔に桜の木を植えることを、公共施設・公有地庁の管理者に提案します。しかし、提案はあえなく却下。

諦めないエリザさんは、その後24年に渡って管理者に桜を植えることを提案し続けます。

エリザさんは向島の下のような風景をポトマック河畔に再現したいと思っていたのでしょうね。

向島の桜

向島の桜

 
転機が訪れたのは、1909年に友人のヘレン・タフト(Helen Herron Taft)が大統領夫人となったことでした。

ヘレンの精力的な支援を得て、ポトマック河畔に桜並木を作る計画がようやく具体化します。

日本からは、当時、東京市の市長であった尾崎行雄氏が日米親善の象徴として桜の寄贈を決定します。

そして、1909年の秋に、横浜から約2000本の桜の苗木が米国に向けて出港しました。

エリザさんの、ポトマック河畔に桜並木を、という25年にも渡る活動が、やっと実を結ぶかのように思えました。

ところが、ワシントンに到着した苗木は病虫害が発生していることが分かり、なんとすべての苗木が焼却処分となってしまいます。

これは言ってみれば日本側の不手際によるものです。これで諦めてしまう訳にはいきません。尾崎市長は、害虫駆除や苗木づくりの方法について、当時の農業技術の粋を集めて、徹底的な調査研究を行います。

3年後の1912年、病虫害の無い約6000本の桜の苗木が再び横浜から米国に向けて出港します。ワシントンに到着した苗木は、今度はまったく病害虫が発見されませんでした。

約6000本の苗木のうち半分がポトマック河畔に植えられ、残りは「ハドソン・フルトン祭り」で植えられました。

こうして、エリザさんの願いは約27年をかけてようやく実現されたのです。

ポトマック河畔の桜

ポトマック河畔の桜

シドモア桜とは?

エリザさんの尽力により、ポトマック河畔に約3000本の日本の桜が植えられました。

1991年(平成3年)に、この桜の苗木が5本がワシントンから日本に「里帰り」しました。

これらの桜の苗木は、横浜外人墓地にあるエリザさんのお墓の傍に植えられおり、現在も「シドモア桜」と呼ばれ人々に愛されています。

シドモア桜

シドモア桜 ©シドモア桜の会

 
写真左下の、十字架の向こうにある三角に見えるのが、エリザさんと、兄や母が眠る墓です。

桜を見たら思い出そう

私たち日本人は、桜を見て “きれいに咲いたな” と思うことはありますが、毎年の事ですし、
特別に桜だけに興味を持っている訳でもありません。

でも、100年以上前に、日本の桜に惹かれ、自分の国にも美しい桜並木を実現したいと思い、25年にも渡って努力していた女性が米国に居たとこと。

桜ってそんなに魅力のある樹なんですね。

これからは、桜を見るとき、そういう女性が居たこと、そして他国の人を惹きつけるほどの美しさがあることを、ちょっとは思い出してみようと思いました。

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